原子力発電所を問う民衆法廷判事団 御中
意 見 陳 述 書
2012年5月20日
申立人 渡辺 ミヨ子
1、おだやかに過ごした子ども時代
2、原子力発電所が出来てから
3、経済の豊かさが引き起こしたこと
4、原子力発電所の事故によって
5、大切にしなければならないこと
6、終わりに~過ちを繰り返さないために
1、おだやかに過ごした子ども時代
私は、昭和十七年生まれです。後ろには竜子山と云う大きな山があり、前には鎌倉岳を望む、とてものどかな農村、当時の船引町横道で育ちました。昭和三十二年に中学校を卒業し、家業の農業を手伝っていました。私たちが子どもの頃はどの家庭も貧しくて、でもどの家庭でも子どもが5,6人は居ました。子どもたちは野山をかけ回り、自分で野いちごや木の実を取っておやつ代わりに食べていました。実の成る木の周りは、実が熟すのを待ってから取ってゆく子どもたちの足跡で固くなっていました。小学校には片道4kmの道を歩いて通っていました。何の心配もなくのびのびと育って来たのです。
私が小学校三年生位の頃でしたか、広島に落とされた原子爆弾で苦しむ人達の映画を、私は二度観ました。爆弾が落とされた場所に居たわけではない人達まで、髪の毛が抜けるなど体にさまざまな異変が起こり、被爆者が苦しむ様子を描いた映画を観て、子ども心にも恐怖に怯えた事を今でもはっきりと覚えています。あんな恐ろしい爆弾が落とされない場所に住みたいと子どもの頃強く考えていました。
2、原子力発電所が出来てから
昭和三十七年には隣の村旧都路村(今は田村市)に嫁いで行きました。生まれた地域と同じような田舎の農村でした。三反位の田んぼと、少しの養蚕をやっていました。昭和三十八年には長女が生まれ、夫は、田畑が少なかったため郵便配達員として村の郵便局で働くようになりました。昭和四十一年には長男が生まれ、四十六年には次男が生まれ、私は三人の母親になりました。夫の両親は家が部落の中心にある事を利用して日用雑貨店を営んでいました。
同じ頃、双葉町に原子力発電所が作られたのですが、住民にはそれについて何の説明もなかった様に思います。都路村の人達は原発に沢山働きに行くようになりました。都路村にも交付金が入り、道路や建物も立派な物が作られ、プールや幼稚園もできて、まるで都会の様になりました。一つ山向こうの私の実家のある地域では、原発で働く人はまれで、どの家庭も昔ながらの農業をやっていて、それに比べて都路はとてつもなく進んでしまった様に思いました。
しかし豊かさとは裏腹に、なぜか弱い者が悲しむ破目になり、誰もが強さだけを競う様になり、毎日悲しい事が多くなっていったのです。私は「なぜ?」と疑問をもつようになりました。
昭和四十六年に次男が生まれた時、「今時、三人も子どもを産むやつがいるか」とののしられたり、夫が原発に働きに出ない事をばかだと言われたりしていました。それらを夫に言う人は誰もなく、全部私だけが言われるのです。その頃の夫の郵便局の給料は5,6万でしたが、義母の話では、東電に行って働けば30万になるんだということでした。
3、経済の豊かさが引き起こしたこと
しかし、経済の豊かさだけに目を奪われて生きる大人達の姿は、純真な子ども達の心にはどんな風に映って見えたのでしょう。原発が始められた頃に生まれた子ども達が青少年となった頃、青少年の異常な行動、犯罪が全国で起きており、田舎の都路でも同じ問題が起きていました。おどろく事に、金品の巻き上げを、中学校の生徒役員が行っているのです。しかし、中学校の中の権力者であるため、誰もそれを言う事ができないのです。そして子どもには考えられない嘘と大人じみた行動に、大人達の悪い事はひた隠しにしたい考えが重なり、次々と過ちが繰り返されてゆくのです。弱い立場になった子どもは誰に言う事もかなわず、異常な行動を取り、心配のあまり一年以上も会社を休んで我が子を見守った親もいました。登校拒否、自殺未遂、「これ、誰にも言わないで!」と小声で身を震わせて言ったお母さんがいました。ああ、やっぱりと思いました。
外でも色々な事が沢山ありました。人生の中で一番希望の有る筈の青少年が自ら命を絶つ事件が全国各地で起きたのです。PTAや地域の有力者による、青少年健全育成会議が全国に設立されました。私はPTAの立場で長い間出席しました。ですが、そのような団体の中では、子どもの非行の責任は何時もその時々の弱者になるのです。親であったり、特に母親になる事が多かった様です。次に何も言い返す事ができない先生の責任にされる事も沢山有りました。
しかし、私は、原因は外に有ると思っていました。なぜならば一つ山向こうの地域で、原発による発展のない地域では、青少年健全育成会議が必要なかったからです。東電の資金で経済が守られて居る地域と自然の中で農業を営み、地域を作っているという違いしかない、同じ農村で起きていた現実なのです。
私は地域で起こるいじめによってその事を語る事もできず、恐れ苦しむ人達の様子が昔映画で観た、広島の人達が放射能を恐れて悲しむ様子と同じ様に思えたのです。親に言っても笑いとばされるか、怒鳴り返されるだけでした。なぜ!何時からこんな事になってしまったのか信じられませんでした。
4、原子力発電所の事故によって
私が嫁いだ都路村は、平成の大合併の時田村郡の中の五町村が集まり、田村市となりました。うつくしま福島の中でも、恵まれた自然が沢山残されていて、平成のはじめ頃から都会の人達が多く移り住んでいました。
私は夫が退職した時、一緒に働ける事を楽しみに梅の木を植えていました。農薬や化学肥料を使わずに育て、シソをたっぷり使って昔作り風に作った梅干しは、多くの人達に喜ばれる様になっていました。昔、山で食べた事のあるブルーベリーに似た木の実、ナツハゼを畑に植えて栽培して、ジャムやジュース等にしていました。その実はとても自然の色なのに、それは美しい色をしていました。ナツハゼの実は、県のハイテクプラザの研究所で調べられ、ブルーベリーの七倍の健康効果がある事が報道され、有力な特産品として沢山の人達が栽培する様になり、これで、息子達にも都路で暮らしてもらえるのではないかと考えて、楽しみにして居たのです。
しかし、それも原発事故によってまき散らされた放射能のために、困難なことになってしまいました。
5、大切にしなければならないこと
豊かになった経済の中で異常な行動を起こす青少年たちの姿を見つめながら、これから生きて行かなければいけない子ども達の世界がこんな事ではと何時も考え込んでいました。そして、考えた末にたどり着いたことは、法外な金品に頼らず、自然の恵みに感謝して生きる事が最も大切だということです。人間は、どんなにすばらしいと言われる人でも自然の中の一員にすぎません。外の生き物と違うとすれば、どこへでも動き回る事ができる事、考える力を与えられている事でしょう。
外の生物にない力が有ったら、その力は弱い者達のために使わなければならないのではないのでしょうか。自分達の利益のために核までも使い、嘘で作り上げられた安心安全の中で、か弱い人達が生きて行ける筈が有りません。
6、終わりに~過ちを繰り返さないために
終わりに私が一番申し上げたい事は、過ちをおかした人が誰にもとがめられずに過ぎてしまった時、必ずその人は同じ過ちを繰り返し、周りの人々を苦しめて自分の人生を壊してしまうという事です。70年の人生の中で、自分の身近な人々に、そういう事実を何人も見て参りました。
今私が無事にここに立って居られるのは、身近な人々に私の過ちを正して下さる人が必ず何人も居たからだと、今は感謝しています。
嘘と偽りを積み重ね、人々の心までもあやつり、自らの経済の豊かさだけを求めて来た人達に、過ちを犯した事への責任を明かしていただく事は、この日本、いえ、人類の為でもあり、一番大切な事は、その人達自身の人生をも守る事で有ると信じて、私はここに立たせていただきました。
どうかお願いです。二度とこの過ちを繰り返さないために、事故を起こした責任を認めて、全世界を、若者達を助けて下さい。
以 上
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