2013年6月28日金曜日

東京最終法廷 7月20・21日開催

原発を問う民衆法廷は2012年2月から国内9カ所で巡回法廷を開き、福島第1原発の核災害によってもたらされた惨状をつぶさに検証するとともに、「核の原罪」に対する民衆の心からの叫びと、正義を求める多くの良心の声に耳を傾けてきました。東京法廷は、これらを集約して国・東京電力をはじめとする当事者に重大な勧告を行います。同時に、日本国民、国際社会に広くこれを訴えるものです。 3.11以降の「核のない世界」に向けて、世界の核被害者 とともに議論したいと思います。奮ってご参加ください。


(メールでのお申込み)
qqq568d9k@extra.ocn.ne.jpまでメールしてください。

(ファックスでのお申込み)
045-434-4225 までお申込みください。

2013年4月30日火曜日

原発民衆法廷 2013年版のチラシができました

【表面】


【裏面】

実行委員会から


「原発を問う民衆法廷-第1回公判(2月25日・東京)における申立人の意見陳述及びそれを引用した第3回公判(5月20日・郡山)の決定の中に、一部事実と異なる部分がありました。

2013年4月30日 原発を問う民衆法廷実行委員会」

2013年4月23日火曜日

声明:経産省前テントの撤去に反対する!


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声明:経産省前テントの撤去に反対する!
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チェルノブイリ人民法廷(1996年)は、「原発には民主主義がない」と言いました。
そのとおりです。日本のどの原発をとってみても、その建設過程、稼働・定期点検、事
故・故障処理など全プロセスにおいて地域破壊、人権蹂躙、事実隠蔽、無責任がまかり
とおり、それと無縁であった原発はありません。福島原発事故においてもウソ、隠蔽、
過小評価が繰り返され、多くの住民を被曝させ、彼らの生活と地域を奪いました。原発
には民主主義がないことは明らかです。
国会事故調査委員会は、原発では、規制する側(原子力安全委員会、原子力安全・保
安院)が規制される側(電力会社)の虜になっていたと断言し、それが事故を引き起し
た、福島原発事故は「人災」である、と結論づけました。
原発は「国策」として進められてきましたが、そこに民主主義はなく、国は住民のた
めではなく電力会社、原子炉メーカー、経済界のために仕事をしてきたのです。
福島原発事故はこのような理不尽な構造を明るみにしました。しかし、経産省、電力
会社、原子炉メーカー等はなおも原発推進に固執し、福島の被害者を置き去りにし、棄
民しようとしてきました。これに対抗するには民主主義が必要であったのです。そのた
めに2011年9月、経産省前にテントは置かれました。
以来、テントには福島の被災者をはじめ実に多くの人びとが訪れ、その中で、その前
で、その周囲で議論を起こしてきました。原発について、事故原因について、被災者支
援について、この国のエネルギー戦略について、そしてこの国の民主主義について多く
の人びとが語り合い、行動を起こしてきました。テントは民主主義を回復し、実現する
拠りどころとなってきたのです。
そのテントを経産省は撤去すると言います。テントを撤去し、不法占拠した土地を明
け渡せと訴訟を起こしました。原発民衆法廷実行委員会は、テント撤去に反対します。
何故ならば、福島原発事故の原因は解明されず、責任を負うべき者たちは誰一人として
訴追もされず、従って、刑に服することも、賠償することもせず3.11前と同様の生活を
送っているからです。いまだに民主主義も正義も回復されていません。また、規制され
る側の虜になり、福島原発事故発生の原因をつくった経産省は責任をとらないばかりか
、原発再稼働、原発推進に固執し、依然として何の反省もしていないことが明白だから
です。経産省は今も、住民のためではなく、電力会社、原子炉メーカーのためだけに働
いているのです。そんな経産省が「公」も「民」も代表しているはずがありません。い
まの経産省にテント撤去を求める資格はないのです。さらに、テントは経産省や司法が
名指しした二人のみが「占有」しているのではないからです。テントはそこに立ち寄り
、そこで議論し、原発とこの国の未来について真剣に考え、行動するすべての人びとの
拠りどころです。二人だけを相手に訴訟して結論をだせる問題ではないのです。
重ねて言います。「原発には民主主義がない」。それ故、それを推進してきた者たち
に対抗するためには民主主義を拡大するほかありません。そのためにはまだ経産省前テ
ントが必要なのです。
原発民衆法廷実行委員会は経産省前にテントがあることを求めます。

2013年4月11日
原発を問う民衆法廷実行委員会

2012年6月8日金曜日

原発民衆法廷-郡山公判  証人プロフィール





山本英彦
小児科医。大学卒業後、現在まで大阪赤十字病院小児科勤務。臨床医として、医療問題研究会に参加し、少しでも根拠にもとづく安全な医療をと心がけている。大阪小児科学会運営委員。
『低線量・内部被曝の危険性-その医学的根拠』(医療問題研究会編)を著し(執筆者の一人)、福島原発事故による子どもたち、住民の被曝の危険性、とりわけ内部被曝の危険性を科学的、実証的に証明。また、医師として福島にも入り、子どもたちの診察にも当たってきた。


佐藤武光
 1948年、福島県に生まれる(双葉郡出身)。監督、プロデューサー。日本映画学校講師、駒澤大学非常勤講師。
福島原発事故の直後、故郷のことを案じ、実家に。その後、被災地の現実と、被災者の真実を伝えるためにカメラを携え、被災者の避難先を訪ね、「警戒区域」にも、「自己責任で入る!」と言って“突入”。そこでカメラが捉えたものは、倒壊した街並み、津波の被害でガレキの荒野と化した住宅地、倒壊を免れた人家の軒先で飼主を待ち続ける犬たち、放たれて彷徨う牛と牛舎で死んだ子牛…。そして、母校・双葉高校の、ひと気の無い校庭や野球部室、散乱するバットやボール。映画『立入禁止区域・双葉~されど我が故郷~』には、原発震災被災地の現実が映し出されている。

原発民衆法廷-第3回公判(郡山)  申立人プロフィール




若松丈太郎
 1935年岩手県生まれ。福島大学卒業後、福島県の高校教師に。詩集に『夜の森』(1961年、福島県文学賞受賞)、『海のほうへ 海のほうから』(花神社、1988年福田正夫賞受賞)、『いくつもの川があって』(花神社、2001年度福島民報出版文化賞受賞)、『越境する霧』(2004年、弦書房)、『北緯37度25分の風とカナリア』(2010年、弦書房)などがある。3.11後に、詩集『ひとのあかし』(「ひとのあかし」「神隠しされた街」等を所収)を刊行。日本ペンクラブ、日本現代詩人会会員。福島県南相馬市在住。

渡辺ミヨ子
 1942年福島県生まれ。1971年に双葉町に原発が建設され、これに伴って、周辺の町村を含めて地域が大きく変貌していく様を見続けてきた。原発事故後、「嘘と偽りを積み重ね、人々の心までもあやつり、自らの経済の豊かさだけを求めて来た人達に、過ちを犯した事への責任を明かして」もらうことが必要と考えるに至る。原発事故の前までは、無農薬で梅、ナツハゼを栽培し、梅干やジャム等を作っていたが、3.11後はそれも叶わなくなった。


吉沢正巳
 福島県浪江町で父親が開いた牧場で、和牛の肥育、繁殖の仕事に従事。3.11原発事故後に20㎞圏内が警戒区域とされ、区域内の家畜について政府が殺処分を指示する中で、“牛たちには原発事故への生き続ける証人として東京電力、国、県に対して抗議してもらいたい”との思いから、「希望の牧場」を立ち上げる。「希望の牧場」では、被曝した牛たちを生かしつつ、被曝、除染の研究や実証の場を各大学、研究機関に積極的に提供し、成果を出していくことを追求している。

井上利男
 「ふくしま集団疎開裁判」の会・代表。神戸市出身。1970年代、奄美大島に居住、石油基地進出反対住民運動に参画中、MAT(徳之島・使用済み核燃料再処理)計画が浮上、核問題の学習を始める。その後、奥会津に移住、脱原発福島ネットワーク会津の発足に加わる。2005年から郡山市在住。03年、ブッシュのイラク侵略を機に海外論調の翻訳活動を本格化。訳書:レベッカ・ソルニット『暗闇のなかの希望~非暴力からはじまる新しい時代』(七つ森書館)など。ブログ『原子力発電_原爆の子』『Be Sober Now!』、ツイッター:@yuima21c

【2012年5月20日・第3回公判(郡山)】 意 見 陳 述 書(3)


原発民衆法廷判事団 御中

意 見 陳 述 書
2012年5月20日

住 所 福島県双葉郡浪江町大字立野字春卯野157
                                 農業生産法人 有限会社エム牧場浪江農場
申立人   吉沢  正巳   

1  浪江町民の人生と夢を奪ったもの
私は、シベリア抑留から帰った父が昭和45年ごろに千葉県四街道市から福島県双葉郡浪江町に移転した牧場で、330頭の和牛の肥育、繁殖の仕事に従事していました。
58歳になり、残りの人生をどうやって生きるかを考えていた昨年3月12日、14キロ先に排気塔が見える福島第1原子力発電所の爆発事故にあってしまいました。千葉の姉が定年後の田舎暮らしにと新築した住宅に同居してまだ3年目。東電や国の流した安全神話など疑問で、いずれ何かあるかもしれないと感じながらも、まさか、原発の爆発音や噴煙をじかに体験するとは思いもしませんでした。
あれから早くも1年余が経ちました。4月16日、国の警戒区域再編によって隣接する南相馬市小高区が「避難指示準備区域」とされ、一時立入りは自由になりました。私の牧場へも大型車で大量の飼料搬入ができるようになったのは、一歩前進です。しかし、牧場の入り口から南15メートル先の県道には新しい鋼鉄製のバリケードがつくられました。原発に近い双葉郡の浪江町、双葉町、大熊町、富岡町は、この新たな封鎖によって、先の見えない絶望の中で暗中模索が続いているのです。
原発の爆発大事故は、すべての浪江町民の人生や夢を奪い去り、放射能汚染の深刻な田畑、山林、街、海を残しました。壊滅的といっていい漁港の請戸地区、両竹地区の津波被害の現場に立てば、「絶望」の言葉がぴったりです。阿武隈山中の水を集め田畑を潤していた大柿ダムの恵みを活かした浪江の米づくりなど、二度と不可能でしょう。
町の崩壊を恐れ、浪江町役場は懸命に再結集を避難住民に呼びかけています。が、現状のままでは浪江町に帰る意味があるだろうか。双葉郡の中で最も広く、また深く放射能に汚染された浪江町は、除染不可能となれば、「絶望の町」、つまり「日本のチェルノブイリ」に他ならないだろうと思うのです。




2  「警戒区域」の地獄の底から
原発爆発から1カ月余り経った昨年4月22日、警戒区域が設定されました。原発から20キロ圏は警察により検問が一層強化され、裏道もバリケード封鎖されてしまいました。
警戒区域の設定は、「家畜と人間のどどちらが大事か」の選択をむりやり全畜産農家に迫り、停電の中で水もなく餌もなく見捨てられた家畜たちが、やがて餓死を迎え、ミイラとなっていったのです。仕方なく放たれた牛達が、野良牛の群れ田畑をさまよっていました。
近所の酪農家は、爆発直後、数日で搾乳牛すべてを見捨てて逃がさざるを得なかったほどの大混乱に陥りました。その後、避難先で残してきた牛たちのことを思い、何度も泣いたそうです。
私のエム牧場では社長の決断で、3月18日に浪江農場の舎飼いの肥育牛、育成牛を放し。330頭の餌としてモヤシ粕を運び入れ始めました。立入禁止地帯にされ、警察官とは何度とななく押し問答を繰り返し、果てはバリケードをずらして、「行かなければ牛が死んでしまう」と裏の山道をトラックで走りました。警察官の線量計が通常の1000倍を示したときもありました。まだ放牧場の草がない時期で、モヤシ粕は貴重な栄養源として牛たちの命を繋いだのです。
同じ地域内で、牛たちの地獄と天国が同居していたのです。
やがて南相馬市の許可証をもらって警戒区域に立ち入り、餌運びの合間に小高区や浪江町の農家の牛舎の惨状を目撃していた私たちは、逆に自分たちの牛の命を助け、餓死させない決意を固めていきました。スクリーニング検査に通い、多少の被曝はしながらも餌運びをしたのは、家畜を飼う畜産人としての当然の道であり、「見捨てないぞ」という意地も相当あったと思います。

3  牛の命を救う最後の砦になりたい
ところが国は昨年5月12日、警戒区域に生き残った家畜の殺処分を指示し、浪江町でも畜産農家、酪農家を集めて2回の説明会が行われました。説明会は紛糾の末、物別れに終わりました。殺処分は「農家の同意を得て」という条件付でしたが、「抹殺」を意味していたのです。
農家は原発事故の被害者であるにもかかわらず、殺処分に応じなければ近所迷惑の加害者にされてしまうという負い目の中にあったのです。県、国からの圧力が続き、多くの畜産農家の人たちがやむなく同意書に判をつき、精神的に相当苦しめられたと思います。
私の牧場の330頭の牛たちは被曝して経済価値はゼロになり、浪江農場の家畜業としての意味はなくなってしまいました。そのことを理解すると私は虚脱感で空しくなり、東京電力によって畜産人としての希望や人生を奪われたのだ、と思いました。
殺処分という国の方針には当然反抗しながらも、やがて冬が来れば牛たちの生命の十分な保証があるのか、わかりませんでした。特に子牛や赤ん坊たちはどうなるのか。雪も降るし、寒くなるだろう……と。
浪江農場は牛たちの命を救う最後の砦になろう。牛たちには原発事故への生き続ける証人として東京電力、国、県に対して抗議してもらいたい……。牛たちの生きる続ける意味とは何かを、私たちは長時間の議論の末に、やっと見出すことができたのです。
高邑勉、阿部とも子衆議院議員の援助、AFP通信社の協力、大学研究者の参加など関係者の検討の末に「希望の牧場」の構想がまとまり、私が代表に決まりました。
「希望の牧場」構想では、被曝した牛たちをずっと生かし続けながら、被曝、除染の研究や実証の場を各大学、研究機関に積極的に提供し、成果を出しながら、餓死でもない抹殺でもない第三の道として牛たちの生きる意味を国や農水省に認めてもらい、福島県の復興に役立てていきたいと考えています。
構想に基づく具体的な研究は昨年9月17日からスタートしています。
 私の牧場の牛たちは現在、30ヘクタールの豊富な草地の中で元気に群れ、子牛たちも動き回っています。この様子は「希望の牧場」のブログでライブ中継されています。

4  決死救命、団結!
昨年3月17日、原子炉建屋で爆発が相次ぐ中、私は、浪江町はもはやこれまでと決断し、宣伝カーを準備して東京電力に抗議しようと考えました。もう浪江に戻れないかもしれないと思って、黒のスプレーで牧場の中に落書きをして東京に向かいました。
そのとき書いた「決死救命、団結!」のスローガンは、今も農場に残っています。今はそれに「希望」が加わり、私の支えになっています。
東京電力の原発事故をめぐってさまざまな抗議、要求運動が各方面から東電、国に対して行われています。福島県の畜産農家はこれからの打開策、展望がまったく見えずにいます。放射性セシウムを含む稲ワラ問題から発生した肉牛の出荷停止、値段の下落の中で、原因をつくった責任者である東電・国への追及はまだまだ不十分です。
「日本農業はもう脱原発を選ぶ」「福島県はセシウム汚染で原発一揆だ!」というぐらいのアピールが、関東や東京の電力消費圏に届かなければ、風評被害で差別され自滅縮小するばかりで、福島県の展望は見えないと思います。福島ブランドを捨て、他県に移住するのがベターなのか。私は、肥育農家が真剣に検討するときが来たと思っています。

5  私たちは2本足のガレキではない!
私の父は、新潟県小千谷出身で、あの戦争時代に満州開拓でソ連国境地帯に入植し、敗戦とともにシベリアに3年抑留され、戦後、千葉県四街道に開拓入植しました。満州開拓団は、敗戦間際のソ連参戦で関東軍が逃げ出し、悲惨な逃避行の中で多くの犠牲者を出しながら命からがら日本に引き揚げてきたのです。
東日本大震災、大津波、原発事故では、あの日本の戦争の時代とはちがうけれど、多くの命が犠牲になりました。戦時の棄民政策による満州開拓団逃避行の多くの犠牲者。原発事故による「棄畜政策」=国の指示による警戒区域内の家畜の殺処分による犠牲と農家の挫折。これはまったく同じではないか。国の「棄畜政策」は、やがて棄民政策となって、警戒区域の避難民にも切り捨て策となって転化されるのではないか。いずれ、私たちは「2本足の生きたガレキ」扱いにされるのだろうか。そう恐れています。

原発事故によって福島県浜通りの双葉郡浪江町、双葉町、大熊町、富岡町は深刻な放射能汚染地帯となり、すべての経済的生産活動が不可能な、まさにチェルノブイリの再来となってしまいました。  
放射能という厄病神にとりつかれた厄介な土地として、見捨てられてしまうのか…
故郷とは、町とは何か…
田畑、山林、海は除染できるのか…
被曝とはなにか…
子や孫と安心して暮らせるときは戻ってくるのか…
高齢者を含め、避難住民が人生の終末を仮設住宅などで終わっていいものか…
私たちの苦闘、苦悶は続いています。
これらをどう乗り越えていくのか。

私は、いま、新たに築かれたバリケードの境界にある「希望の牧場」から、これらのことを多くの人々に呼びかけ、問いかけ続けていきたい。そう思っています。

       

以 上

【2012年5月20日・第3回公判(郡山)】 意 見 陳 述 書(2)


原子力発電所を問う民衆法廷判事団 御中

意 見 陳 述 書

2012年5月20日

                                      申立人 渡辺 ミヨ子

1、おだやかに過ごした子ども時代
2、原子力発電所が出来てから 
3、経済の豊かさが引き起こしたこと
4、原子力発電所の事故によって 
5、大切にしなければならないこと
6、終わりに~過ちを繰り返さないために

1、おだやかに過ごした子ども時代
  私は、昭和十七年生まれです。後ろには竜子山と云う大きな山があり、前には鎌倉岳を望む、とてものどかな農村、当時の船引町横道で育ちました。昭和三十二年に中学校を卒業し、家業の農業を手伝っていました。私たちが子どもの頃はどの家庭も貧しくて、でもどの家庭でも子どもが5,6人は居ました。子どもたちは野山をかけ回り、自分で野いちごや木の実を取っておやつ代わりに食べていました。実の成る木の周りは、実が熟すのを待ってから取ってゆく子どもたちの足跡で固くなっていました。小学校には片道4kmの道を歩いて通っていました。何の心配もなくのびのびと育って来たのです。
 私が小学校三年生位の頃でしたか、広島に落とされた原子爆弾で苦しむ人達の映画を、私は二度観ました。爆弾が落とされた場所に居たわけではない人達まで、髪の毛が抜けるなど体にさまざまな異変が起こり、被爆者が苦しむ様子を描いた映画を観て、子ども心にも恐怖に怯えた事を今でもはっきりと覚えています。あんな恐ろしい爆弾が落とされない場所に住みたいと子どもの頃強く考えていました。

2、原子力発電所が出来てから
 昭和三十七年には隣の村旧都路村(今は田村市)に嫁いで行きました。生まれた地域と同じような田舎の農村でした。三反位の田んぼと、少しの養蚕をやっていました。昭和三十八年には長女が生まれ、夫は、田畑が少なかったため郵便配達員として村の郵便局で働くようになりました。昭和四十一年には長男が生まれ、四十六年には次男が生まれ、私は三人の母親になりました。夫の両親は家が部落の中心にある事を利用して日用雑貨店を営んでいました。
 同じ頃、双葉町に原子力発電所が作られたのですが、住民にはそれについて何の説明もなかった様に思います。都路村の人達は原発に沢山働きに行くようになりました。都路村にも交付金が入り、道路や建物も立派な物が作られ、プールや幼稚園もできて、まるで都会の様になりました。一つ山向こうの私の実家のある地域では、原発で働く人はまれで、どの家庭も昔ながらの農業をやっていて、それに比べて都路はとてつもなく進んでしまった様に思いました。
しかし豊かさとは裏腹に、なぜか弱い者が悲しむ破目になり、誰もが強さだけを競う様になり、毎日悲しい事が多くなっていったのです。私は「なぜ?」と疑問をもつようになりました。
昭和四十六年に次男が生まれた時、「今時、三人も子どもを産むやつがいるか」とののしられたり、夫が原発に働きに出ない事をばかだと言われたりしていました。それらを夫に言う人は誰もなく、全部私だけが言われるのです。その頃の夫の郵便局の給料は5,6万でしたが、義母の話では、東電に行って働けば30万になるんだということでした。

3、経済の豊かさが引き起こしたこと
 しかし、経済の豊かさだけに目を奪われて生きる大人達の姿は、純真な子ども達の心にはどんな風に映って見えたのでしょう。原発が始められた頃に生まれた子ども達が青少年となった頃、青少年の異常な行動、犯罪が全国で起きており、田舎の都路でも同じ問題が起きていました。おどろく事に、金品の巻き上げを、中学校の生徒役員が行っているのです。しかし、中学校の中の権力者であるため、誰もそれを言う事ができないのです。そして子どもには考えられない嘘と大人じみた行動に、大人達の悪い事はひた隠しにしたい考えが重なり、次々と過ちが繰り返されてゆくのです。弱い立場になった子どもは誰に言う事もかなわず、異常な行動を取り、心配のあまり一年以上も会社を休んで我が子を見守った親もいました。登校拒否、自殺未遂、「これ、誰にも言わないで!」と小声で身を震わせて言ったお母さんがいました。ああ、やっぱりと思いました。
外でも色々な事が沢山ありました。人生の中で一番希望の有る筈の青少年が自ら命を絶つ事件が全国各地で起きたのです。PTAや地域の有力者による、青少年健全育成会議が全国に設立されました。私はPTAの立場で長い間出席しました。ですが、そのような団体の中では、子どもの非行の責任は何時もその時々の弱者になるのです。親であったり、特に母親になる事が多かった様です。次に何も言い返す事ができない先生の責任にされる事も沢山有りました。
 しかし、私は、原因は外に有ると思っていました。なぜならば一つ山向こうの地域で、原発による発展のない地域では、青少年健全育成会議が必要なかったからです。東電の資金で経済が守られて居る地域と自然の中で農業を営み、地域を作っているという違いしかない、同じ農村で起きていた現実なのです。
 私は地域で起こるいじめによってその事を語る事もできず、恐れ苦しむ人達の様子が昔映画で観た、広島の人達が放射能を恐れて悲しむ様子と同じ様に思えたのです。親に言っても笑いとばされるか、怒鳴り返されるだけでした。なぜ!何時からこんな事になってしまったのか信じられませんでした。

4、原子力発電所の事故によって
私が嫁いだ都路村は、平成の大合併の時田村郡の中の五町村が集まり、田村市となりました。うつくしま福島の中でも、恵まれた自然が沢山残されていて、平成のはじめ頃から都会の人達が多く移り住んでいました。
 私は夫が退職した時、一緒に働ける事を楽しみに梅の木を植えていました。農薬や化学肥料を使わずに育て、シソをたっぷり使って昔作り風に作った梅干しは、多くの人達に喜ばれる様になっていました。昔、山で食べた事のあるブルーベリーに似た木の実、ナツハゼを畑に植えて栽培して、ジャムやジュース等にしていました。その実はとても自然の色なのに、それは美しい色をしていました。ナツハゼの実は、県のハイテクプラザの研究所で調べられ、ブルーベリーの七倍の健康効果がある事が報道され、有力な特産品として沢山の人達が栽培する様になり、これで、息子達にも都路で暮らしてもらえるのではないかと考えて、楽しみにして居たのです。
 しかし、それも原発事故によってまき散らされた放射能のために、困難なことになってしまいました。

5、大切にしなければならないこと
豊かになった経済の中で異常な行動を起こす青少年たちの姿を見つめながら、これから生きて行かなければいけない子ども達の世界がこんな事ではと何時も考え込んでいました。そして、考えた末にたどり着いたことは、法外な金品に頼らず、自然の恵みに感謝して生きる事が最も大切だということです。人間は、どんなにすばらしいと言われる人でも自然の中の一員にすぎません。外の生き物と違うとすれば、どこへでも動き回る事ができる事、考える力を与えられている事でしょう。
外の生物にない力が有ったら、その力は弱い者達のために使わなければならないのではないのでしょうか。自分達の利益のために核までも使い、嘘で作り上げられた安心安全の中で、か弱い人達が生きて行ける筈が有りません。

6、終わりに~過ちを繰り返さないために
終わりに私が一番申し上げたい事は、過ちをおかした人が誰にもとがめられずに過ぎてしまった時、必ずその人は同じ過ちを繰り返し、周りの人々を苦しめて自分の人生を壊してしまうという事です。70年の人生の中で、自分の身近な人々に、そういう事実を何人も見て参りました。
今私が無事にここに立って居られるのは、身近な人々に私の過ちを正して下さる人が必ず何人も居たからだと、今は感謝しています。
嘘と偽りを積み重ね、人々の心までもあやつり、自らの経済の豊かさだけを求めて来た人達に、過ちを犯した事への責任を明かしていただく事は、この日本、いえ、人類の為でもあり、一番大切な事は、その人達自身の人生をも守る事で有ると信じて、私はここに立たせていただきました。
どうかお願いです。二度とこの過ちを繰り返さないために、事故を起こした責任を認めて、全世界を、若者達を助けて下さい。

以 上

【2012年5月20日・第3回公判(郡山)】 意 見 陳 述 書(1)


原子力発電所を問う民衆法廷判事団 御中

意 見 陳 述 書

2012年5月20日

                                      申立人 若松 丈太郎

1、はじめに~逃げだした経緯
2、南相馬市の現状と想定される未来 
3、苛酷事故後の住民への対処と事実の伝達の問題 
4、危険性を認識しながら十全な対策を講じなかった問題 
5、労働者被曝の問題 
6、危険性を認識しながら国策として推進した問題 
7、おわりに(負の遺産の問題など) 

1、はじめに~逃げだした経緯
  2011年3月11日午後、マグニチュード9.0の巨大地震が発生しました。震源から180キロあまりの南相馬市での震度は6強ということでした。市街地は地盤がいいのでしょうか、近所には倒壊した家はありませんでした。
  テレビで、震源、震度、津波情報、東電福島第1原発が緊急自動停止したことを知りました。だが自動停止はしょっちゅう繰り返していたことなので、うかつにも心配しませんでした。
  夕刻、電話があって、付近の海岸一帯が津波によって壊滅的な被害を受けたことを知ります。これを聞いて、わたしは、〈核発電〉施設はどうだったのだろう、自動停止した炉のその後の保全はうまくいっているのだろうかなどと思いました。(以下、わたしは原発を〈核発電〉、原発事故を〈核災〉と言います)
   12日、福島第1で炉心を冷却できず、稼働していた3基が制御不能状態におちいっているとのニュースを弟がもってきました。わたしたち夫婦と弟夫婦とは最悪のメルトダウンを想定し、南相馬市からの脱出を考え、隣に住む義兄に同行を誘い、身のまわりの整理をはじめました。
  3月13日、義兄が様子を見るというので、脱出を延期しました。
   3月14日、3号炉で、1号炉と同様な爆発が起き、2号炉も不安定な状態だという情報を弟が得てきました。
   3月15日、兄はやはり留まると言うので残し、午前6時ごろ、弟夫婦と4人で福島市に住む妻の姉の家へ向かいました。いわゆる自主避難ということになります。出発した時刻に前後して、福島第1の2号機と4号機があい次いで爆発し、建屋などが損壊。これをうけ、午前11時に菅首相が、20キロから30キロ圏の住民に対し屋内退避の指示を出したことを、福島市に着いたのちに知ります。途中、飯舘村や川俣町の駐車可能なスペースのいたるところに一夜を過ごしたと思われる車が停められていました。
  1994年にチェルノブイリを訪ねた経験をもとに、連詩「悲しみの土地」を書き、〈核災〉難民となった人々の思いを代弁したつもりでした。しかし、そのとき彼らの思いだと思っていたものは現在の自分の思いそのものであるという現実のなかに、わたしは置かれていると認識しました。危惧したことが現実になって、わたしの腸は煮えくりかえって、収まることがありませんでした。なぜなら、この事態が、専門家の傲岸にして、かつ根拠の不確かな科学技術への過信による人災であり企業災だからです。
  3月17日、南相馬市に残っていた妻の兄を迎えに弟の車で飯舘村を経由して往復しました。流通が止まり、市内はゴーストタウン状態となって、商店は軒並みシャッターを下ろし、車がまれに走っていても、歩いている人はいませんでした。この日、南相馬市は独自に全市民に対して市外への退避を勧めました。
  4月16日の文部科学省の公表によれば、20キロ圏外で15日までの積算放射線量は浪江町赤宇木17,010マイクロシーベルト、飯舘村長泥9,850マイクロシーベルト、福島市596マイクロシーベルト。一方、皮肉なことに南相馬市は495マイクロシーベルトとのことでした。
  4月19日、姉の家での35日間の避難生活を終え自宅に戻りました。
  南相馬市は、ここから先の南は立入禁止、北への公共交通は復旧されていないという、南米大陸最南端ホーン岬のような地の果てです。

2、南相馬市の現状と想定される未来
  南相馬市は福島第1原発の北約10キロから40キロに位置しています。その25キロ地点原町区の住民がどんな対応を求められたかを中心に、まず説明します。〈核災〉発生の4日後、昨年3月15日、政府は福島第1の20~30キロ圏住民に「屋内退避」を要請しました。家から出ないで閉じこもっていろというのです。たちまち医療・教育などに支障が生じ、物流が止まり、メディアは圏内から記者を退去させるなどの影響が出ました。17日、南相馬市は独自に判断して、屋内退避圏の市民を県外へ避難させるためのバスを用意するなどの対応をとります。政府は、ようやく25日になって屋内退避を要請していた地域の住民に「自主避難」を促すよう対象市町村に指示を発しました。「自主避難」とは、逃げられる者は逃げ、逃げられない者は留まれという、行政不在の住民への無責任な要求です。
  次に、4月22日に指定替えした「緊急時避難準備区域」とは、緊急に際して自力での避難を前提とするため、子ども・要介護者・入院患者の在住を基本的には認めず、教育機関を休校・休園にするというのです。このため、医療・福祉・教育が崩壊し、経済・交通など市民生活を支える機能が破壊されてしまいました。7万1千人の人口が1万人台にまで激減したと言われています。文字どおりのゴーストタウンになったのです。その後の「特定避難勧奨地点」の追加指定によって、市内は無指定地区とあわせて5つの地区に分断され、それぞれに異なった対応を強制されたのです。
  この指定の5か月後、9月30日に政府は「緊急時避難準備区域」の指定を解除し、一部教育機関の再開と一部医療機関の入院患者受け入れなどがはじまりました。さらに、福島第1の〈核災〉から1年2か月をまえにしたことしの4月16日には市内の警戒区域と計画的避難区域の指定を解除し、新たに「避難指示解除準備区域」「居住制限区域」「帰宅困難区域」という3つの区域に再編しました。つまり、現在も、市内は指定のない地区とあわせて4地区に分断されているのです。帰還するまでに数年を要する「居住制限区域」、5年以上は戻れない「帰宅困難区域」以外のほとんどの市民は、インフラの復旧が進捗したのちは、希望さえすれば数年以内に居住できることになります。これは、昨年12月16日に野田首相が「冷温停止状態の達成を確認した」とし、「原発事故の収束」を宣言したこととあわせ、一見したところ、地震・津波の災害と〈核災〉とから順調に回復しているものと感じられるかもしれません。しかし、「冷温停止状態の達成」とは「冷温停止」の確認ではありません。束ね収めると書く「収束」とは〈核災〉が終わり止むこと「終熄」を意味してはいません。同じレベル7のチェルノブイリ〈核災〉が26年後のいまも終熄していないと同様、福島〈核災〉も現在進行形です。〈核災〉を完全に終熄させた事例は過去にはまだありません。
 わたしが住んでいるあたりの空間放射線量は、最大時には毎時4.2マイクロシーベルトでしたが、最近は毎時0.35マイクロシーベルト前後です。5月6日現在の原町区の空間放射線測定値が毎時0.6マイクロシーベルト以下なのは59か所中44か所、毎時0.114マイクロシーベルト以下なのは除染をおこなった学校の一部など8か所だけです。この1年間の積算線量は3.8ミリシーベルト前後と推定されます。また、小高区で毎時0.6マイクロシーベルト以下なのは避難指示解除準備区域の12か所中5か所だけです。成人と比較して子どもは3倍から10倍も放射線に敏感だとされています。これでは子どもたちが暮らせる環境として承認することはできません。子どものいる家族を中心に避難先から戻らない人が多いのも当然です。帰りたいけれども帰れないでいるのです。2年まえの4月とことし4月の児童・生徒数を比較すると、小学生が3952人から1865人に、中学生が1,890人から1,189人に、高校生が1,950人から1,169人にとそれぞれ半数程度に減少したままでいます。また、別の統計によると、4月1日現在で県内の18歳未満の避難者数は3万人だが、そのうちの6分の5強にあたる5,606人が南相馬市の子どもたちだそうです。
 2月18・19日に原町区で対話集会や加藤登紀子のコンサートがあったとき、会場内で子どもたちが「いま知りたいこと」として書いたことばの一部を紹介します。

  雨でもサッカーができるようになりますか
  ほうしゃせんを気にしないで外で遊べるのはいつですか?
  水道水を飲んでもいいですか
  30キロ以内に子どもがいていいの?
  甲状ガンは私たちを死に追いやる病気なのですか
  放射能除染の効果が本当にあるかどうか
  けいかいくいきの中の家に帰れますか?
  いつ仙台までの電車が動きますか
  原発の状態はほんとうはどうなんですか?
  原発はもう爆発しませんか?
  今度、津波や地震がきても大丈夫なの?
  東電と保安院がついたウソの数
  将来、子供が産めますか?
  地球はどのくらいまでもちますか?

 わたしたちの町では10歳前後の子どもたちがこんな思いをかかえて生きているのです。〈むごい〉としか言いようがないではありませんか。
 昨年3月以降、福島県産の農畜産物の出荷を停止し、4月には、警戒区域、計画的避難区域、緊急時避難準備区域の水田での稲作を禁止し、8月には、作付け禁止区域での産米の出荷と販売を禁止し、産米全量の廃棄処分を義務づけました。そして、ことしも作付け禁止が継続されています。畜産農家の現状については、このあと吉沢さんがお話しなさるでしょう。また、30キロ圏の沿岸漁業を禁止し、その周辺海域での操業も自粛されています。
  昨年4月、全村避難のTVニュースを見た102歳の飯舘村最高齢男性が、翌朝死亡しているのを発見されたこと、昨年6月、相馬市の酪農家が「原発さえなければと思います」などのことばを残して死亡したことが伝えられました。
  ことし3月下旬、南相馬市の69歳の母親と47歳の長男が自宅内で凍死していたのが発見されました。長男は2月上旬、母親は2月中旬に亡くなったとみられ、発見されるまで1か月以上もだれも気づかずにいたことになります。この親子の家はわたしの家から200メートルたらずの距離にあって、わたしの妻は店のまえを通るときに母親がいれば声をかけるのを常としていたといいます。しかし、店を廃業したあと〈核災〉が発生しました。これをうけて市民の多くが「自主避難」し、ほとんどの商店はシャッターを閉じてしまい、どの家に住民が残っているのか、避難して不在なのか、あるいは一時的に帰ってきてもまた避難先に戻ったりしていて、近所の人たちでさえ、互いの安否を把握でない状況になっていたのです。この家の電気は止められていたそうです。
 かつてはさまざまな店が軒を並べ、さまざまな職人が店先で仕事をしていて、たがいに暮しを支えあっている関係がうまく成立していました。そんな地方の小都市にアメリカ渡来の大型店が闖入してきたため、小さな店がひとつまたひとつと廃業していきました。豆腐屋が豆腐をつくるのをやめ、仕立屋から職人がいなくなって、シャッターが下りたままの店がふえていきました。そして、郊外により大きなスーパーマーケットが開業すると、町なかの大型店はさっさと撤退してしまいました。町なかを歩いている人がいなくなって、通りは車が移動するためだけのものになって、町は町としての機能をなくしてしまいました。追い撃ちをかけるように、アメリカ渡来の〈核発電〉がメルトダウンすると、周辺の町も村もメルトダウンして、町は町でなく、村は村でなくなってしまいました。ことに、小高区に4月16日以降、昼間の立入が可能になったので、来訪者を5回ほど案内しましたが、1年まえに時間が止まってしまった現状を目にしてだれもが絶句してしまいます。これも〈核災〉がもたらしたものです。
 事件としてメディアが報道することはなかったものの、〈核災〉による間接的な死やさまざまなかたちでの被害をわたしは数多く見聞しています。津波直後に〈核災〉からの避難を強制されたため行方不明の家族を捜せなかった人、屋内退避・自主避難の勧告が出て医療機関が閉鎖されたため転院先への搬送途中で死亡した人、透析ができなくなって死亡した人、わずかな身のまわりの品だけを持って行き先を知らされないまま避難バスで脱出した人、仮設住宅での生活のなかで言語障害を起こした人、帰宅をあきらめての慣れない環境で精神的に病んでいる人、生きてゆくために家族が離散せざるをえなかった人、ほかにもまだまだいて、挙げきれません。
  〈核災〉は人間の尊厳を奪っているのです。
 桜井勝延南相馬市長が4月12日に語ったことによると、津波による市民の死者は福島県内ではもっとも多い638人、加えてこの1年間の〈核災〉関連死者は266人だといいます。悲しむべきことですが、死者は今後もさらに増加してゆくことでしょう。また、限られた少数の職員で対処しなければならなかった結果、激務のために疲労しきったり、精神的打撃を受けたりして、定年前に依願退職したベテラン市職員が、ことしはとりわけ多かったと聞いています。
  医療や養護・介護などの復旧にはまだまだ時間がかかりそうです。
 将来へのたしかな見通しを持てないなかで、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症するおとなたちがいっそう多くなることでしょう。それだけでなく、子どもたちが甲状腺疾患を発症する危惧はもちろんのこと、子どもたちにもPTSDが顕在化することも懸念されてなりません。
 原子核物理学者瀬尾健『原発事故…その時、あなたは!』(風媒社・1995年)によれば、福島第1の6号炉で破局的事故が発生した場合のシミュレーションでは、風向きによっては南相馬市民の36パーセント、2万6千人が急性死するというのです。〈核災〉後のいま読み返してみると、恐ろしいほどのリアリティーを感じてしまいます。3・11〈核災〉では、さいわいにも理論上の最悪事態(数シーベルトの被曝による多数の急性死者が周辺住民にでること)には至りませんでした。わたしはチェルノブイリ訪問後の1994年に書いたエッセイ「原子力発電所と想像力」で、福島第1で〈核災〉が発生したときに周辺住民に及ぶであろう生活上の最悪事態を想定してみたことがあります。3・11から1年余のいま、わたしたちが暮らす地域の現実は、18年まえに想定した最悪事態そのままであると、いや、それ以上の事態でさえあると、わたしには〈体感〉されています。さらに、これからあとの対処によっては、どんな結末となるのかについて現段階ではだれにも予測できないでしょう。長期化の可能性はおおきく、再臨界してチェルノブイリを超える可能性も否定できません。そんな不安を抱えながらわたしたちは生きているのです。
「警戒区域」(この名称は、住民を主体とするのではなく、管理する側の発想によって命名された住民不在の名称です)から避難している人々と、警戒区域周辺のわたしたちの意識とにはおおきな隔たりはないだろうと思います。
 日常を奪われ、不条理な状況のなかで、不本意な避難生活をつづけているわたしたちはどんな存在なのでしょう。「日本国憲法」はその前文で「恐怖と欠乏から免れ、平和に生存する権利」、第13条で「個人としての尊重、生命、自由、幸福追求の権利」、第14条で「法の下での平等」、第22条で「居住・移転・職業選択の自由」、第25条で「健康で文化的な最低限度の生活の保障・生存権」、第26条で「能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利」、第27条で「勤労の権利」などを保証し、その実現のため義務を国に課しています。ところが、わたしたちはここからほど遠い状況下に置かれています。わたしたちが暮らしている国は民主主義国家と自称しているけれども、その実体がなく、とりわけ生活弱者や子どもたちを大事にしない国であることが、今回の〈核災〉とその対処によってあきらかになりました。わたしたちは日本国民ではないのか、わたしたちは棄民されているのか、そう感じています。
 
3、苛酷事故後の住民への対処と事実の伝達の問題
  同心円で引かれた線の外側ではあっても早急に避難すべき場所にいた住民は、危険な
レベルの放射線量の高さを知らされず、場所によっては8ヵ月以上もそのまま放置され
ました。この結果、12月13日に福島県が発表した県民の外部被曝線量がもっとも高
かった人は、7月11日までの積算線量が6.2~19.0ミリシーベルトになると試算さ
れたとのことです。職業的被曝の限度とされている年間5ミリシーベルトを1カ月で被
曝していたのです。
  さらに、「計画的避難区域」「特定避難勧奨地点」指定の根拠にした年間20ミリシ
ーベルトは、国際放射線防護委員会(ICRP)が2007年に緊急事故後の短期間に
限って容認した被曝限度量であって、平常時であれば一般人の被曝限度量は年間1ミリ
シーベルトです。それなのに、いつまで続くか見とおしがないまま、12月15日に内
閣府の有識者会議が現状を追認したように、年間20-ミリシーベルトを避難の基準と
しつづけることは妥当ではありません。リスクが高いことは明白です。
  こうして「警戒区域」「計画的避難区域」「特定避難勧奨地点」をあわせると15万
人を超える人びとが福島県内外でいまも避難生活を続けているのです。
  昨年3月12日午後2時過ぎには1号機周辺で実際にセシウムを検出しました。炉心
熔融を確認したことになります。しかし、その夜、枝野幸男官房長官は「1号機の爆発
は水素爆発」とは語ったものの、炉心熔融の事実には触れませんでした。夕刻、浪江町
津島には10キロ圏内からの避難者1万人がいました。さらに午後6時25分に、半径
20キロ内住民に対して避難を指示し、十数万人が避難を開始していました。しかし、
SPEEDIによる放射性物質の拡散についての実際に近い予測にもとづいて確認計測
をした結果、浪江町津島の放射線量が高いことを知っていながら、避難指示の対象外だ
ったため住民に知らせませんでした。
  15日午後、SPEEDIの予測にもとづいて北西28キロの浪江町津島字赤宇木で
の実測では、早急に避難すべき毎時330マイクロシーベルトを計測しました。しかし、
翌16日文部科学省の発表は、同省のホームページに地区名を伏せて数値だけを記載したものだったため、住民の避難には活かせませんでした。また、福島県はSPEEDIの予測データを入手しながら削除してしまいました。これらのケースは、住民の安全と健康を考慮することよりも住民のパニックを恐れた対応だったとしか言いようがありません。パニックを起こしていたのは、住民ではなく政府や東電でした。住民は冷静に行動しました。
   それだけではありません、16日、アメリカは80キロ圏内の自国民に避難を勧告し、
米大使館などの職員家族の自主的な日本国外への避難を認めたのに対し、同じ日、わが
国の官房長官は「毎時330マイクロシーベルトはただちに人体に影響を与えるような
数値ではない」ので「ご安心を」と語りました。この数値は、一般人の平常時年間被曝
限度量の実に120日分です。3時間そこにいるだけで1年分の限度量を被曝するので
す。2日半いるだけで緊急事故後復旧時の一般人の年間被曝限度量に達するのです。こ
れは仮に「ただちに人体に影響を与える数値ではない」にせよ、「人体に深刻な影響を
確実に与えるにちがいない数値」であって、とても「ご安心」などとは口にできないは
ずの数値なのです。
   SPEEDIのデータを初公表した23日午後も、官房長官は「30キロ圏外の一
部でも、年間100ミリシーベルト以上の被曝線量となり得るケースも見られますが、
現時点でただちに避難や屋内退避をしなければならない状況だとは分析をいたしており
ません」と語っています。年間100ミリシーベルトとは、一生のあいだに一般人が被
曝する限度量を1年間で超えてしまうことを意味しています。これは、仮に「ただちに
避難や屋内退避をしなければならない状況ではない」にしても「すみやかに避難や屋内
退避すべき状況」だと言うべきではなかったかと、考えます。
  4月17日、浪江町南津島で毎時500マイクロシーベルト超を計測しました。年間
4,380ミリシーベルトに該当する高線量です。さすがに、こうした現実を放置できな
くなって、「計画的避難区域」「特定避難勧奨地点」を設定したのです。
  このような対応によって「放置」され、過大な被曝を強いられたのは、浪江町津島の
ほかに、飯舘村、葛尾村、南相馬市、川俣町、伊達市、川内村などの子どもたちをふく
む多数の住民たちでした。
  ヨウ素剤飲用を指示したのは三春町だけだったという事実もあります。
  ここでさらに問題なのは、福島県中通り、あるいは福島県外にホットスポットの存在
を確認していながら、これらを「避難勧奨地点」として指定しなかったことです。文部
科学省「放射線モニタリング情報」によれば、無指定区域であっても1年間の積算線量が5ミリシーベルトを超えると推測される場所が広範にあって、福島市・郡山市・二本松市・本宮市などの市域部も含まれることがわかります。これらの地域をふくむ80キロ圏を「緊急時避難準備区域」として指定すれば、福島県の半分以上(東京都と埼玉県を合わせたほどの広さ)が該当します。おそらく、国はこれによる事態を想定したときの社会的影響を恐れて、逆にこの無指定地域よりも放射線量値が低い緊急時避難準備区域の指定を9月30日に解除することによって逆転状況を解消しようとしたのではなかったかと推測します。
  100万人もの住民、とりわけリスクの高い子どもたちを危険にさらしている現況は、
 国民の生命と子どもたちの未来を護るべき責務を放棄した国家による棄民行為であると
告発するものです。

4、危険性を認識しながら十全な対策を講じなかった問題
  すでに1972年にアメリカの原子力委員会は、マークⅠ沸騰水型は格納容器が小さいため、水素がたまって爆発した場合には損傷しやすいので、使用を止めるべきだと警告しています。しかし、そうした警告を無視しつづけ、1992年に原子力安全委員会が「日本では過酷事故は起きない」と無責任な発言をしてお墨付きを与え、経済性を最優先に考えて事故対策を講じませんでした。
  昨年4月7日の深夜に宮城県沖を震源とする余震がありました。この地震によって六ヶ所村の核燃再処理工場や東北電力東通と女川で電源の遮断や冷却機能の損失などがありました。地震や津波への対応が不十分なのは東電第1に限ったことではありません。
  たいへん便利な責任逃れの口実として〈想定外〉ということばが使われましたが、専門家が使用することは許されないことばだと思います。〈想定外〉を想定できないのであれば、〈核発電〉の操業をしてはならないのです。

5、労働者被曝の問題
   報道された福島第1での労働者の死亡事故を捜しだしてみました。
  昨年5月中旬、8月上旬、10上旬、ことし1月上旬に死者が出ています。これらのケースでは共通して、被曝線量が低く、作業内容と死因とに因果関係は認められないとされています。これ以外にも労働者の死亡が報道されているかもしれませんが、おそらくその場合にも被曝を直接の死因とはしていないにちがいありません。
  ところが、昨年3月24日、3号機タービン建屋地下での作業中、高濃度に汚染された水に3人が足を踏み入れ、くるぶしから下の皮膚に2~6シーベルトもの高線量を局所被曝する事故が起きています。3人は下請けや孫請け会社の従業員で、年齢は20代から30代、健康への影響がなく、治療の必要がないと診断されて、4日後の28日に退院したといいます。生涯の被曝限度量400ミリシーベルトと比較すると、被曝線量2~6シーベルトはその5~15倍も高く、生命に危険が及ぶ数値なのですが、この3人についてのその後の追跡記事を目にしたことがありません。
  もうひとつ、〈核災〉当日の3月11日に4号機タービン建屋で行方不明になっていた2人の東電社員が3月30日に遺体で発見されました。外傷による出血性ショックが死因といいます。この日は全電源が喪失したため、ドアの開閉もできなくなったそうです。命からがら脱出したという作業員が語ったことのまた聞きですが、協力企業の数十人の作業員が建屋内に閉じこめられて死亡したとの噂があります。ある新聞記者にその噂の真偽について尋ねてみたことがありますが、否定も肯定もしませんでした。〈核災〉による直接的な死者はないとされてはいるものの、実際にはその存在を秘匿して闇に葬っているのではないかと疑うものです。
  仮にAさんとします。Aさんは東電第1の1号機で最初の爆発事故があった 翌13日に東電の協力会社から呼び出されて3号機での作業に従事しました。14日にその3号機で爆発事故が起きて負傷者が出たと報道されたので、Aさんの家族はAさんと連絡しようとしたのですが、連絡できず、心配していました。丸3日が過ぎてからようやく下請け会社から家族にAさんの無事が伝えられたものの、Aさんとの直接連絡は認められませんでした。これはAさんに限らず、多くの人びとがこうした拘束状態で作業に従事しているのではなかろうかと思われました。このことをある新聞社の知人に話して取材と調査を依頼しました。その翌日にAさんは丸4日ぶりに勤務を解かれて家族との電話ができました。19日になって7日ぶりに帰宅したということです。
  〈核災〉を起こした原子炉近傍の、放射線量の高い場所での作業には大量被曝の危険が伴います。交代しながらの作業だとしても4日間も拘束しつづけながら、1日にビスケット10枚とペットボトルの水1本だけの食事しか与えられない日もあったという苛酷な勤務は、いかに非常な事態でのこととはいっても許されることではないと思いました。
  〈核災〉後の管理保全には長い時間と膨大な作業量とが必至の要件であるはずですが、こうして原発労働者が大量被曝しては使い捨てられ、将来的に原発内労働に従事できる人を確保できなくなるのではないかと推測されます。

6、危険性を認識しながら国策として推進した問題
  4つのプレートがぶつかりあって形成されているわたしたちの国は、世界有数の火山国・地震国です。〈核発電〉を立地するには計りしれない危険性があることは、今回の震災で実証されました。
 〈核発電〉施設建設推進側は、その扱いにくさ、危険性をはじめから十分に認識していて、立地を審査する際の基準を、「万一の原子炉破壊事故により放射性物質の大気拡散時に周辺公衆に重大な災害を及ぼさない」ため「発電所敷地を高い人口地帯から出来るだけ離すことが必要」だとして、「原子炉の周囲は(略)非居住区域であること」、「非居住区域の外側の地帯は、低人口地帯であること」と定め、経済格差を利用して第一次産業も成立しにくい過疎地を狙い撃ちしたのです。
 福島第1の敷地である長者原は旧日本陸軍飛行場跡地だったものを、国土計画興業(堤康次郎・堤義明)が払い下げをうけて、一部で塩田事業をおこなっていました。1960年、福島県(佐藤嘉一郎知事)は原発立地調査をおこない、国土計画興業が所有する長者原を適地と確認します。本来なら住民に返却されるべき軍用地の大部分を3万円で手に入れた大企業は3億円で東電に転売し、住民が知らないうちに建設計画が進行していたのです。
  電力会社を囲んで、政治家、官僚、メガバンク、日立・東芝・GE、ゼネコン、協力企業、軍、御用学者、御用評論家、マスメディア、地方自治体一体の〈核発電〉推進組織、いわゆる〈原子力村〉は安全神話、必要神話をでっちあげて、「安価で環境にやさしい」「電気が不足する」とうそぶいてきました。これらの神話は、いますべて嘘だったということが明らかになりました。
   さらに、たとえば、住民原告団が福島第2原発1号炉設置許可処分取消提訴を1075年におこなったものの、福島地裁は84年に棄却、86年のチェルノブイリ事故後の92年に最高裁は上告を棄却しました。あるいは、放射性物質を「無主物」と主張する東電の主張を認める判決が昨年10月にあるなど、原子力村には司法の府も荷担しているのです。
  使途を限定した交付金や寄付金によって建設した公共施設を維持する経費が増大して財政が破綻し、そのため、さらに増設を受け入れなくてはならなくなるという底なしの泥沼にはまり込んでしまった自治体が出てきました。
  双葉町のアーチには〈原子力 明るい未来 郷土の発展〉というスローガンが掲げられています。オシフィエンチム強制収容所入口アーチの〈労働は自由をもたらす〉とあい通ずる欺瞞が感じられます。
  建設推進者・事故当事者と立地自治体住民とを一括避難することは不適切です。騙した側の責任と騙された側の責任はあきらかに異なります。足尾銅山事件の被害者住民、水俣チッソ事件の被害者住民に対して、彼らがこうむった被害をみずからが招いたものとしてその責任を追及できるでしょうか。むしろ、騙された側は騙した側の責任を問う権利を有しているはずです。

7、おわりに(負の遺産の問題など)
 〈核発電〉は非人間性を内在させています。
  〈核発電〉は核の軍事利用の副産物であって、核兵器は核エネルギーの悪用であり〈核発電〉は核エネルギーの誤用であると言われています。
  〈核発電〉は熱効率が悪く、化石燃料発電から自然エネルギー発電のあいだの過渡的発電方法であり、今回の〈核災〉によってリスクの高い発電方法であることがあらためて実証されました。事故終熄のための経費をはじめ、廃炉、放射性廃棄物の処理・保管、被害者への補償などを考えれば、膨大な底なしの経費 ― 炉だけでなく経費もメルトダウンするなんてしゃれにもなりません ― が必要とされることでしょう。しかも、役だつ期間は百年たらずなのに、人類にとどまらず全生物に対して地球規模で影響を及ぼす〈核災〉の真の意味での終熄までには、世代を超えて10万年、あるいは100万年に及ぶ長い時間を必要とします。仮に、〈核災〉がなかったとしても、ながい将来にわたって放射線を発生しつづける膨大な量の廃棄物を後代に遺すことは、あるまじき犯罪行為です。〈核発電〉を維持するための多額の経費は自然エネルギー発電へのより早い移行を実現するために転用すべきです。
   わが国は、高速増殖炉、核燃料再処理、プルサーマル、原発輸出からまず撤退し、地震リスク、老朽リスクの高い炉から順次廃炉をすすめ、できるだけ早期に〈核発電〉ゼロを達成すべきです。
   福島第1の〈核災〉を承けて、ドイツをはじめとするヨーロッパ諸国で、〈核発電〉大国フランスでさえも、脱〈核発電〉の動きがすすんでいて、他の国ぐににもひろがってゆくことでしょう。ところが、国内ではこうした動きに背を向ける勢力が強く、彼らは〈核災〉が犯した罪の重大性を学習せず、〈核発電〉を存続しつづけようとし、その輸出を目論んでいます。その背景には、そこにおおきな利権が存在するからにちがいありません。個人や企業の利益のために、わたしたちとわたしたちの子孫の生命 と尊厳とが脅かされることをわたしは承認するわけにはいかないのです。
   わたしたち人類は〈核災〉を発生させたことによって、核のゴミを管理し、その後始末をするため、これからあと10万年以上も〈存続すべき義務〉を課せられたと言われています。その途方もない時間をわたしたちの末裔は〈存続すべき義務〉を背負いながらはたして生きつづけていけるでしょうか。わたしたちの文明として認知できるものはせいぜい5千年の過去にしかさかのぼれません。となれば、わたしたちはわたしたちが犯した重罪を記憶にとどめ、10万年後の人類に伝えていかねばなりません。
   そのうえ、わたしたちは、わたしたちの子孫、10万年後の人類にどんな世界を用意してやらねばならないのかについて、考究し、実行する責務を負ったのです。それだけに、これから来る人びとへの責任を考えた生きかたを、3・11以後の世界を生きるための哲学の構築を、すべてのわたしたちは求められているはずです。
  〈核〉を制御できると過信し、十全な対策を講じないまま、平和利用であるとか、環境にやさしいとか、安価であるなどと偽って、国策として推進し、その権益に群がり、事故を隠蔽し、住民を欺いてきた結果として招いた事態が、住民のいのちと尊厳と未来とを奪い、さらには世界的規模でしかもながい将来にわたって影響を及ぼす重大な犯罪であることを認識できず、検証もせず、まして責任を取ろうなどとは考えもせず、権益と地位を守ることのみに汲々としている原因者たちの犯罪を、わたしは告発します。
   ものごころがついたとき、戦争の時代のただなかにわたしはいました。その戦争責任を徹底して追求しなかった結果としての現在があると、わたしは考えています。将来に禍根を残さないために、〈核災〉の原因者たちの犯罪を糾弾しなければなりません。
   わが国には死刑という制度がありますが、被告人たちに終身刑に服すことを求刑するよう、わたしは求めます。そして、彼らが終生、〈核発電〉施設内部で除染作業に携わることを求めます。

以 上