2012年3月26日月曜日

原子力発電所を問う民衆法廷・決定第1号

2012年2月25日・第1回公判


民衆法廷とは何であり、なぜ、何を裁くのか
          ――本法廷の性格と任務


一 法廷の根拠

1. 本法廷は、2011年12月19日に市民社会が採択した「原子力発電所を問う民衆法廷規程」に基づいて設立された。
規程第1条は「原子力発電所を問う民衆法廷(以下「原発民衆法廷」)は、本規程の定めるところに従い、日本における原発政策の導入、展開、及び現在に至るすべての経過を、日本国憲法、各種の法律及び確立された国際法に基づいて検証し、日本政府、および国際社会に勧告的意見を提出する」として、法廷の設置を定めている。続いて、規程第2条は「原発民衆法廷は、原発政策の導入、展開、及び現在に至るすべての経過に照らして、国家の責任を判断する」とし、第3条は「原発民衆法廷は、本規程の規定に従って、個人及び法人に対して裁判権を持つ」として、法廷の任務を定めている。本法廷は規程及び法廷呼びかけに示された思想に基づいて、原発を根底的にとらえ返し、日本における原発政策を解明し、原発および原発事故に関連する国家、地方自治体、個人、法人の責任を明らかにすることを目的とする。
2.本法廷の基本的性格として何よりも強調しなければならないのは、民衆法廷としては当然のことであるが、福島第一原発事故によって被災した福島県をはじめとする被害者の視点である。日本政府や東京電力が置き去りにして顧みようとしない多様な被害者の声に耳を傾けることを基本に据えることなしに民衆法廷は存立しえない。被害者の視点で物を考えるとはどのような営みを指すのかを、権威や権力の高みからではなく、人類史上初の原発水素爆発の映像に震撼し、恐怖を味わった世界の民衆とともに考え、ここから来るべき思想を紡ぎだしていくことが本法廷に課された任務である。同様に、世界各地のウラン採掘現場で、核兵器製造工場と核実験場で、原発立地で、そして使用済核燃料貯蔵地各地で、人間の尊厳を賭けて闘っている人々の声に耳を傾け、思いを共有することが、本法廷の出発点でなければならない。
3.福島第一原発事故の被害者という場合、どの観点で見るかによって被害者の範囲も大きく異なる。事故後に原発周辺地域から避難を余儀なくされた人々ばかりではなく、水素爆発の映像に驚愕し慄然とさせられたすべての人々が深刻な精神的被害を受けたことも言うまでもない。民衆法廷は、さまざまの意味での被害をとらえ返し、被害者の声に耳を傾けつつ、その位置と意味を見定めていく必要がある。
二 民衆法廷の継承
4.民衆法廷には長い歴史があり、本法廷は先行する民衆法廷に学び、これを継承するものである。
5.ヴェトナム戦争が激しく戦われていた1967年5月2日から10日、ストックホルム(スウェーデン)で、ヴェトナムにおけるアメリカの戦争犯罪を裁く「国際戦争犯罪法廷」――通称「ラッセル法廷」――が開かれた。提唱した哲学者バートランド・ラッセルを名誉裁判長、ジャン・ポール・サルトルを執行裁判長とし、アイザック・ドイッチャー(英)、ウラジミール・デディエ(ユーゴ)、シモーヌ・ド・ボーボワール(仏)、レリオ・バッソ(伊)、デビッド・デリンジャー(米)、森川金寿(弁護士)などを法廷メンバーとした。



6.民衆法廷の思想的根拠について、裁判長サルトルは次のように述べている。
 「『ラッセル法廷』は、この二重の矛盾した確認から生まれました。ニュルンベルクの判決は、戦争犯罪について調査するための、また必要ならそれを裁くための、制度機構の存在を不可欠のものとした、にもかかわらず、どの国の政府も人民もそれを創りだす力を持っていないという現状、この二重の確認からです。われわれは、誰からも委任されはしなかったのだということをはっきりと自覚しています、それなのに集まろうと提唱したのは、誰もわれわれに委任することなどできないのだということも知っていたからです。なるほど、われわれの『法廷』は制度機構ではない。が、だからといって、制度化されたどのような権限にもとってかわるものではない。それどころか、それは、ある空白とある請求に由来するものなのです。われわれは、諸政府によって集められた現実の権限を付与されたわけではない。しかし、さきほど見たように、ニュルンベルクでのこの権限付与は、異論の余地ない正当性を司法官にあたえるに十分ではなかったのです。『ラッセル法廷』は、これに反して、みずからの正当性は、その完全な無力に、と同時に、その普遍性に起因するのだ、と考えています。」
7. 民衆法廷にはいかなる実力もない。民衆法廷にはいかなる権威もない。誰からも授権されていない。しかし、この無力と無権威こそ民衆法廷の真義であることを、サルトルは最初から見抜いて、宣言していた。
 「われわれは無力です。これがわれわれの独立の保証なのです。われわれをたすけてくれるものはなにもありません、われわれ自身とおなじように私人の集まりである支援諸組織の協力をのぞいては。われわれは、政府代表でも党代表でもないので、命令を受けることなどできない。われわれは、いわゆる<良心にしたがって>、あるいは、そう言ったほうがよければ、精神のまったき自由において、事実を検討するでしょう。」
  「しかしながら、公正で普遍的であろうとするわれわれの意志がどれほどのものであろうと、それがわれわれの企てを正当化するに十分でないことを、われわれはよく自覚しています。われわれがまさしく望んでいるのは、その正当化が、あとからふりかえって、あるいは、そう言ったほうがよければ、ア・ポステリオリに、得られることなのです。じじつ、われわれが仕事をしているのは、われわれ自身のためにでもなければたんに真相を知るためでもないので、われわれは、われわれの結論を青天の霹靂のように押しつけようなどとは、もうとう、思っていない。まさしく、われわれは願っているのです、世界のあらゆるところでヴェトナムの悲劇を苦痛をもって生きている大衆とわれわれとのあいだに、報道陣の協力を得て、恒常的な接触を保てればよいが、と。」

8. その後の民衆法廷の多くが、サルトルの言葉を反芻し、応用し、練り直しながら進められてきた。近年では「湾岸戦争」に関するラムゼー・クラーク提唱による「クラーク法廷」や、朝鮮戦争における民間人虐殺や化学兵器使用を取り上げた「コリア戦犯民衆法廷」、2000年12月に開かれた「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」が知られる。21世紀にも、アフガニスタンにおけるアメリカの戦争犯罪を裁いた「アフガニスタン国際戦犯民衆法廷」、イラクにおけるアメリカの戦争犯罪を裁いた「イラク国際戦犯民衆法廷」、イスタンブールを拠点として世界各地の市民が協力してイラクにおけるアメリカの戦争犯罪を告発した「イラク世界法廷」、さらには「原爆投下を裁く国際民衆法廷・広島」が開催されてきた。

9.それでは、いったいなぜ民衆法廷なのだろうか。
 通常の犯罪とは異なって、戦争犯罪は軍人や政治指導者によって行われることが多い。侵略の罪は最高権力者しか犯せない。ところが、国家権力の座にある者が犯した戦争犯罪を裁くことは非常に難しい。権力者が自ら犯した犯罪を隠蔽するからである。ナチスの戦争犯罪を裁いたニュルンベルク裁判や、日本の戦争犯罪を裁いた東京裁判の実例があるが、ほとんどの権力犯罪は見逃されてきた。ナチスや日本の戦争犯罪が裁かれたのは、敗戦後のことである。連合国側が犯した戦争犯罪は、戦後の裁判でも裁かれなかったどころか、完全に隠蔽された。
 軍事独裁政権による権力犯罪も、国内で犯罪を告発すれば、告発者は次の犠牲者リストに加えられることになってしまう。政権崩壊後にようやく権力者の犯罪を告発できるようになるが、さまざまな困難が待ち受けていることは、世界各地の軍事独裁者を裁いた裁判例がごくわずかしかないことからも明らかである。
 権力犯罪を国内法廷で裁くことは非常に困難である。仮に訴追を実現しても、今度はその国内法廷の公平性が逆の形で問われることになり、政治闘争に変質してしまう。検察官や裁判官が暗殺されることや、周辺諸国の軍事介入を招くこともある。

10.国内法廷で裁けない場合、国際法廷の可能性もあるが、実例は限られている。戦争犯罪や人道に対する罪を裁いた国際法廷は、ニュルンベルク裁判、東京裁判、旧ユーゴ裁判、ルワンダ裁判、東ティモール裁判であり、カンボジア特別法廷とシエラレオネ特別法廷が設立されている。これらは時期や場所を特定したアド・ホックな裁判であり、それ以外の犯罪を取り上げることができない。また、国際法廷も国際政治の力学の中で実施されるために、公正な裁判といえるか否かが常に問われてきた。
 さらに、1998年にローマ規程が採択されて、2002年に発足した国際刑事裁判所(ICC)は、今後は世界のいかなる場所で誰が行なったものであっても、戦争犯罪や人道に対する罪を裁く普遍的管轄権を認められているが、2002年7月1日以前に犯された犯罪を裁くことはできないし、アメリカ、中国などはICC規程を批准していないという限界がある。

11.ここに民衆法廷の歴史的現実的必要性がある。女性国際戦犯法廷においても、民衆法廷は次のように理解されている。
「これは民衆法廷、グローバルな市民社会の声によって発案され、設立された法廷である。本法廷の権威は、国家や政府間組織によって生じるものではなく、アジア太平洋地域の人々、もっと正確に言うなら、日本が国際法のもとで説明する義務を負っている世界中の人々に由来するものである。さらに本法廷は、諸国家が空白にしたままの部分に踏み込むものであって、法過程における国家の役割にとって代わろうとするものではない。本法廷の力は、数多くの人権活動と同じく、証拠を調べ、正確な歴史的記録を作成し、認定された事実に国際法の原則を適用い得ることにある。」
「本法廷の各判事は、人々の総意と、市民社会における法の支配の基本的役割を十分に尊重して参加している。この民衆法廷は、国際的および国内における法の支配の基礎は、法的な説明責任にあるとの確信に基づいている。すなわち、確立した国際法規範に著しく反する政策や行動について個人と国家の説明を求めることである。そうした行為を見過ごせば、同じことが繰り返され、不処罰の文化が続く。」(VAWW-NETジャパン編『女性国際戦犯法廷の全記録Ⅱ』(緑風出版、2002年)

12.権力法廷とは違って、民衆法廷には権力がないから、被疑者を逮捕することができないし、強制捜索・押収もできない。仮に有罪判決を出しても刑の執行もできない。被告人を刑事施設に収容することはできない。それでも民衆法廷が歴史を積み重ねてきたのは、民衆の視座から権力犯罪を告発する必要性があったからである。平和と正義を願う民衆の協力によって、権力犯罪の事実を調査・解明し、何が行われたのかを歴史に残し、それがまぎれもない権力犯罪であることを確定し、世界に向かって提示することを通じて、民衆による民衆のための法思想および国際人権法の世界を切り拓いていくことに歴史的意義がある。
 本法廷は、世界の市民が展開してきた平和と正義を求める民衆法廷を継承し、発展させるべく、ここに開廷するものである。

三 法廷の性格

13.本法廷は、民衆法廷の先例に学びつつ、さらに独自性も追及する。第1に複合法廷である。ラッセル法廷、女性国際戦犯法廷、アフガニスタン国際戦犯民衆法廷、イラク国際戦犯民衆法廷、原爆投下を裁く国際民衆法廷は、基本的には戦争犯罪や人道に対する犯罪を裁くための、刑事法廷であった。これに対して、本法廷は複合的な性格をもつべく構想されている。すなわち、原発事故に関する刑事責任の解明に加えて、原発事故に関連する避難や補償などの諸問題、そして東京電力のみならず日本政府の原発導入政策の問題など、幅広い問題を取り上げる必要がある。ひいては、原発の憲法適合性を問うことも課題であり、この点では、特定の国家の憲法に即して志向するだけではなく、原発と人類の共存という問題を根底から問い直すことも求められている。その意味で、本法廷は複合法廷のモデルを作り出そうとするものである。

14.本法廷の特徴の第2は、巡回法廷である。規程第10条は「裁判部は巡回法廷を行うこととし、必要に応じて各地で公判を開催する」とする。ラッセル法廷は、当初、ストックホルムでの開催だけが予定されていたが、その後、コペンハーゲンでも開催された。女性国際戦犯法廷は、東京法廷とハーグ(オランダ)最終判決公判が開催されたが、これは偶然の所産であった。アフガニスタン国際戦犯民衆法廷は東京で、イラク国際戦犯民衆法廷は京都と東京で行われた。これに対して、本法廷は、日本各地での開催を予定している。巡回法廷としての民衆法廷のモデルを提供するものとなるだろう。
なお、第12条は「裁判部は、申立人及び代理人が提出した証拠、及び自ら収集した証拠を吟味して、必要に応じて随時、決定を言い渡す」とし、第13条は「裁判部は、最終公判において、日本政府、日本社会に対して勧告的意見を言い渡す」とする。ここでは決定と判決という用語が独特の意味合いで用いられている。決定は巡回法廷においてその都度言い渡すものとし、最終法廷において判決を言い渡すスタイルを予定している。

四 民衆法廷における裁き
15.民衆法廷は権力を持たず、被告人の身柄拘束もできず、判決の執行もできないが、法廷において問題を顕在化させ、整理し、法的に検証する作業を行う。その際、民衆法廷判事は、権力法廷判事とは異なり、権力による正当化も授権もなしに、「完全な無力」を自覚しつつ、ただ<良心にしたがって>行動する以外にない。そのことを通じて一定の普遍性を獲得することが民衆法廷の使命である。
民衆法廷において「裁く」とは、問題の真の所在を明らかにすることであり、当事者・関係者と徹底した対話を試みることである。ひいては法廷そのものが民衆によって裁かれることでもある。本法廷の判事自身が原発による電力を享受し、受益してきた市民である。それゆえ、原発を根底的に問い直すという場合、単に日本政府や東京電力の作為・不作為を問うだけではなく、長期にわたる原発政策にもかかわらず、これに異議申し立てを十分に行ってこなかった市民自身が自らを問うことも必須の課題となる。


民衆法廷において、裁くとは裁かれることである。


2012年2月25日・第1回公判


民衆法廷とは何であり、なぜ、何を裁くのか
          ――本法廷の性格と任務


一 法廷の根拠

1. 本法廷は、2011年12月19日に市民社会が採択した「原子力発電所を問う民衆法廷規程」に基づいて設立された。
規程第1条は「原子力発電所を問う民衆法廷(以下「原発民衆法廷」)は、本規程の定めるところに従い、日本における原発政策の導入、展開、及び現在に至るすべての経過を、日本国憲法、各種の法律及び確立された国際法に基づいて検証し、日本政府、および国際社会に勧告的意見を提出する」として、法廷の設置を定めている。続いて、規程第2条は「原発民衆法廷は、原発政策の導入、展開、及び現在に至るすべての経過に照らして、国家の責任を判断する」とし、第3条は「原発民衆法廷は、本規程の規定に従って、個人及び法人に対して裁判権を持つ」として、法廷の任務を定めている。本法廷は規程及び法廷呼びかけに示された思想に基づいて、原発を根底的にとらえ返し、日本における原発政策を解明し、原発および原発事故に関連する国家、地方自治体、個人、法人の責任を明らかにすることを目的とする。
2.本法廷の基本的性格として何よりも強調しなければならないのは、民衆法廷としては当然のことであるが、福島第一原発事故によって被災した福島県をはじめとする被害者の視点である。日本政府や東京電力が置き去りにして顧みようとしない多様な被害者の声に耳を傾けることを基本に据えることなしに民衆法廷は存立しえない。被害者の視点で物を考えるとはどのような営みを指すのかを、権威や権力の高みからではなく、人類史上初の原発水素爆発の映像に震撼し、恐怖を味わった世界の民衆とともに考え、ここから来るべき思想を紡ぎだしていくことが本法廷に課された任務である。同様に、世界各地のウラン採掘現場で、核兵器製造工場と核実験場で、原発立地で、そして使用済核燃料貯蔵地各地で、人間の尊厳を賭けて闘っている人々の声に耳を傾け、思いを共有することが、本法廷の出発点でなければならない。
3.福島第一原発事故の被害者という場合、どの観点で見るかによって被害者の範囲も大きく異なる。事故後に原発周辺地域から避難を余儀なくされた人々ばかりではなく、水素爆発の映像に驚愕し慄然とさせられたすべての人々が深刻な精神的被害を受けたことも言うまでもない。民衆法廷は、さまざまの意味での被害をとらえ返し、被害者の声に耳を傾けつつ、その位置と意味を見定めていく必要がある。
二 民衆法廷の継承
4.民衆法廷には長い歴史があり、本法廷は先行する民衆法廷に学び、これを継承するものである。
5.ヴェトナム戦争が激しく戦われていた1967年5月2日から10日、ストックホルム(スウェーデン)で、ヴェトナムにおけるアメリカの戦争犯罪を裁く「国際戦争犯罪法廷」――通称「ラッセル法廷」――が開かれた。提唱した哲学者バートランド・ラッセルを名誉裁判長、ジャン・ポール・サルトルを執行裁判長とし、アイザック・ドイッチャー(英)、ウラジミール・デディエ(ユーゴ)、シモーヌ・ド・ボーボワール(仏)、レリオ・バッソ(伊)、デビッド・デリンジャー(米)、森川金寿(弁護士)などを法廷メンバーとした。
6.民衆法廷の思想的根拠について、裁判長サルトルは次のように述べている。
 「『ラッセル法廷』は、この二重の矛盾した確認から生まれました。ニュルンベルクの判決は、戦争犯罪について調査するための、また必要ならそれを裁くための、制度機構の存在を不可欠のものとした、にもかかわらず、どの国の政府も人民もそれを創りだす力を持っていないという現状、この二重の確認からです。われわれは、誰からも委任されはしなかったのだということをはっきりと自覚しています、それなのに集まろうと提唱したのは、誰もわれわれに委任することなどできないのだということも知っていたからです。なるほど、われわれの『法廷』は制度機構ではない。が、だからといって、制度化されたどのような権限にもとってかわるものではない。それどころか、それは、ある空白とある請求に由来するものなのです。われわれは、諸政府によって集められた現実の権限を付与されたわけではない。しかし、さきほど見たように、ニュルンベルクでのこの権限付与は、異論の余地ない正当性を司法官にあたえるに十分ではなかったのです。『ラッセル法廷』は、これに反して、みずからの正当性は、その完全な無力に、と同時に、その普遍性に起因するのだ、と考えています。」
7. 民衆法廷にはいかなる実力もない。民衆法廷にはいかなる権威もない。誰からも授権されていない。しかし、この無力と無権威こそ民衆法廷の真義であることを、サルトルは最初から見抜いて、宣言していた。
 「われわれは無力です。これがわれわれの独立の保証なのです。われわれをたすけてくれるものはなにもありません、われわれ自身とおなじように私人の集まりである支援諸組織の協力をのぞいては。われわれは、政府代表でも党代表でもないので、命令を受けることなどできない。われわれは、いわゆる<良心にしたがって>、あるいは、そう言ったほうがよければ、精神のまったき自由において、事実を検討するでしょう。」
  「しかしながら、公正で普遍的であろうとするわれわれの意志がどれほどのものであろうと、それがわれわれの企てを正当化するに十分でないことを、われわれはよく自覚しています。われわれがまさしく望んでいるのは、その正当化が、あとからふりかえって、あるいは、そう言ったほうがよければ、ア・ポステリオリに、得られることなのです。じじつ、われわれが仕事をしているのは、われわれ自身のためにでもなければたんに真相を知るためでもないので、われわれは、われわれの結論を青天の霹靂のように押しつけようなどとは、もうとう、思っていない。まさしく、われわれは願っているのです、世界のあらゆるところでヴェトナムの悲劇を苦痛をもって生きている大衆とわれわれとのあいだに、報道陣の協力を得て、恒常的な接触を保てればよいが、と。」

8. その後の民衆法廷の多くが、サルトルの言葉を反芻し、応用し、練り直しながら進められてきた。近年では「湾岸戦争」に関するラムゼー・クラーク提唱による「クラーク法廷」や、朝鮮戦争における民間人虐殺や化学兵器使用を取り上げた「コリア戦犯民衆法廷」、2000年12月に開かれた「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」が知られる。21世紀にも、アフガニスタンにおけるアメリカの戦争犯罪を裁いた「アフガニスタン国際戦犯民衆法廷」、イラクにおけるアメリカの戦争犯罪を裁いた「イラク国際戦犯民衆法廷」、イスタンブールを拠点として世界各地の市民が協力してイラクにおけるアメリカの戦争犯罪を告発した「イラク世界法廷」、さらには「原爆投下を裁く国際民衆法廷・広島」が開催されてきた。

9.それでは、いったいなぜ民衆法廷なのだろうか。
 通常の犯罪とは異なって、戦争犯罪は軍人や政治指導者によって行われることが多い。侵略の罪は最高権力者しか犯せない。ところが、国家権力の座にある者が犯した戦争犯罪を裁くことは非常に難しい。権力者が自ら犯した犯罪を隠蔽するからである。ナチスの戦争犯罪を裁いたニュルンベルク裁判や、日本の戦争犯罪を裁いた東京裁判の実例があるが、ほとんどの権力犯罪は見逃されてきた。ナチスや日本の戦争犯罪が裁かれたのは、敗戦後のことである。連合国側が犯した戦争犯罪は、戦後の裁判でも裁かれなかったどころか、完全に隠蔽された。
 軍事独裁政権による権力犯罪も、国内で犯罪を告発すれば、告発者は次の犠牲者リストに加えられることになってしまう。政権崩壊後にようやく権力者の犯罪を告発できるようになるが、さまざまな困難が待ち受けていることは、世界各地の軍事独裁者を裁いた裁判例がごくわずかしかないことからも明らかである。
 権力犯罪を国内法廷で裁くことは非常に困難である。仮に訴追を実現しても、今度はその国内法廷の公平性が逆の形で問われることになり、政治闘争に変質してしまう。検察官や裁判官が暗殺されることや、周辺諸国の軍事介入を招くこともある。

10.国内法廷で裁けない場合、国際法廷の可能性もあるが、実例は限られている。戦争犯罪や人道に対する罪を裁いた国際法廷は、ニュルンベルク裁判、東京裁判、旧ユーゴ裁判、ルワンダ裁判、東ティモール裁判であり、カンボジア特別法廷とシエラレオネ特別法廷が設立されている。これらは時期や場所を特定したアド・ホックな裁判であり、それ以外の犯罪を取り上げることができない。また、国際法廷も国際政治の力学の中で実施されるために、公正な裁判といえるか否かが常に問われてきた。
 さらに、1998年にローマ規程が採択されて、2002年に発足した国際刑事裁判所(ICC)は、今後は世界のいかなる場所で誰が行なったものであっても、戦争犯罪や人道に対する罪を裁く普遍的管轄権を認められているが、2002年7月1日以前に犯された犯罪を裁くことはできないし、アメリカ、中国などはICC規程を批准していないという限界がある。

11.ここに民衆法廷の歴史的現実的必要性がある。女性国際戦犯法廷においても、民衆法廷は次のように理解されている。
「これは民衆法廷、グローバルな市民社会の声によって発案され、設立された法廷である。本法廷の権威は、国家や政府間組織によって生じるものではなく、アジア太平洋地域の人々、もっと正確に言うなら、日本が国際法のもとで説明する義務を負っている世界中の人々に由来するものである。さらに本法廷は、諸国家が空白にしたままの部分に踏み込むものであって、法過程における国家の役割にとって代わろうとするものではない。本法廷の力は、数多くの人権活動と同じく、証拠を調べ、正確な歴史的記録を作成し、認定された事実に国際法の原則を適用い得ることにある。」
「本法廷の各判事は、人々の総意と、市民社会における法の支配の基本的役割を十分に尊重して参加している。この民衆法廷は、国際的および国内における法の支配の基礎は、法的な説明責任にあるとの確信に基づいている。すなわち、確立した国際法規範に著しく反する政策や行動について個人と国家の説明を求めることである。そうした行為を見過ごせば、同じことが繰り返され、不処罰の文化が続く。」(VAWW-NETジャパン編『女性国際戦犯法廷の全記録Ⅱ』(緑風出版、2002年)

12.権力法廷とは違って、民衆法廷には権力がないから、被疑者を逮捕することができないし、強制捜索・押収もできない。仮に有罪判決を出しても刑の執行もできない。被告人を刑事施設に収容することはできない。それでも民衆法廷が歴史を積み重ねてきたのは、民衆の視座から権力犯罪を告発する必要性があったからである。平和と正義を願う民衆の協力によって、権力犯罪の事実を調査・解明し、何が行われたのかを歴史に残し、それがまぎれもない権力犯罪であることを確定し、世界に向かって提示することを通じて、民衆による民衆のための法思想および国際人権法の世界を切り拓いていくことに歴史的意義がある。
 本法廷は、世界の市民が展開してきた平和と正義を求める民衆法廷を継承し、発展させるべく、ここに開廷するものである。

三 法廷の性格

13.本法廷は、民衆法廷の先例に学びつつ、さらに独自性も追及する。第1に複合法廷である。ラッセル法廷、女性国際戦犯法廷、アフガニスタン国際戦犯民衆法廷、イラク国際戦犯民衆法廷、原爆投下を裁く国際民衆法廷は、基本的には戦争犯罪や人道に対する犯罪を裁くための、刑事法廷であった。これに対して、本法廷は複合的な性格をもつべく構想されている。すなわち、原発事故に関する刑事責任の解明に加えて、原発事故に関連する避難や補償などの諸問題、そして東京電力のみならず日本政府の原発導入政策の問題など、幅広い問題を取り上げる必要がある。ひいては、原発の憲法適合性を問うことも課題であり、この点では、特定の国家の憲法に即して志向するだけではなく、原発と人類の共存という問題を根底から問い直すことも求められている。その意味で、本法廷は複合法廷のモデルを作り出そうとするものである。

14.本法廷の特徴の第2は、巡回法廷である。規程第10条は「裁判部は巡回法廷を行うこととし、必要に応じて各地で公判を開催する」とする。ラッセル法廷は、当初、ストックホルムでの開催だけが予定されていたが、その後、コペンハーゲンでも開催された。女性国際戦犯法廷は、東京法廷とハーグ(オランダ)最終判決公判が開催されたが、これは偶然の所産であった。アフガニスタン国際戦犯民衆法廷は東京で、イラク国際戦犯民衆法廷は京都と東京で行われた。これに対して、本法廷は、日本各地での開催を予定している。巡回法廷としての民衆法廷のモデルを提供するものとなるだろう。
なお、第12条は「裁判部は、申立人及び代理人が提出した証拠、及び自ら収集した証拠を吟味して、必要に応じて随時、決定を言い渡す」とし、第13条は「裁判部は、最終公判において、日本政府、日本社会に対して勧告的意見を言い渡す」とする。ここでは決定と判決という用語が独特の意味合いで用いられている。決定は巡回法廷においてその都度言い渡すものとし、最終法廷において判決を言い渡すスタイルを予定している。

四 民衆法廷における裁き
15.民衆法廷は権力を持たず、被告人の身柄拘束もできず、判決の執行もできないが、法廷において問題を顕在化させ、整理し、法的に検証する作業を行う。その際、民衆法廷判事は、権力法廷判事とは異なり、権力による正当化も授権もなしに、「完全な無力」を自覚しつつ、ただ<良心にしたがって>行動する以外にない。そのことを通じて一定の普遍性を獲得することが民衆法廷の使命である。
民衆法廷において「裁く」とは、問題の真の所在を明らかにすることであり、当事者・関係者と徹底した対話を試みることである。ひいては法廷そのものが民衆によって裁かれることでもある。本法廷の判事自身が原発による電力を享受し、受益してきた市民である。それゆえ、原発を根底的に問い直すという場合、単に日本政府や東京電力の作為・不作為を問うだけではなく、長期にわたる原発政策にもかかわらず、これに異議申し立てを十分に行ってこなかった市民自身が自らを問うことも必須の課題となる。
民衆法廷において、裁くとは裁かれることである。

2012年2月25日
原子力発電所を問う民衆法廷判事
                              鵜飼 哲
                              田中利幸
                              前田 朗

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